SSブログ

親問題を今こそ考えたい [生きるを考える]

 このところ、比較的晴れの日が多い。秋の陽がいっぱいさす日は野山をあるいても、家の窓辺でほころびをつくろっていても、気持ちがうきうきと晴れる。太陽ってすごい力持ち。
 秋になると決まって思い出す風景。真っ青な空の下に咲くコスモス、川面に日差しを受けて反射しながら流れるやさしい小川、田んぼにいるタニシやザルガ二。黄金色に実った水田のあぜ道にはイナゴが飛び交っていたものですが、今はお目にかかることもあまりないのではないでしょうか。前世はタニシでもあったのかと思うくらい日本の秋の風景を探してしまう。健康のためにも歩かなくちゃ、ちょっと遠出して里山の近くにすることも。先日は地方に、農業に興味があって千葉市の高梨農園にいってみました。
 散歩には文庫本をたいがい持参します。最近読み応えがあったのは「我を超えること」近代理性主義の克服という本でした。イモずる式に読みたい本がどんどん増えてしまうのですがなかなか進みません。

 暴力ってなんだろう。時代が進み社会が進歩すると生きやすく、住みやすくなるんだと思ってきたのに、なぜ世界中が暴力的になるのだろう。海岸に横たわる幼い命、故郷を逃れた難民に援助の手は届かず、死と隣り合わせの人々。国内ニュースでも心が痛い。けれども何もできない。見たくない、考えたくない、知りたくないと思うわたしがいる。考えたって仕方がないと。

 親問題というのは実際の親の問題のことではない。人が生きることについての根本的な問題のこと。
 少し前、友人が憤慨したように、大学で人文文化系の学部を減らす方針を政府が決めたということを知らせてきた。人文文化系で学ぶ学生が心配しているという。あらゆることで何か、基本のこと、根本的なことが問われていると思った。 そういう思いはずっとずっと以前から心の底から離れなかった。
 人が生きていくことの基本ってなんだろうか。育てる、生かす、命をつなげる、人間が営々としてやってきたことはそのことなのだと思う。しかし、育てているのだろうか。生かしているのだろうか。命を大切につないでいるのだろうか。一部の人のために、だれかのために、だれかの命が粗末にされてはならないのではないだろうか。

暴力の問題をこれから考えたいと思うので以前書いたものを公開保存にしました。
nice!(16)  コメント(3) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。