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誰も教えてくれない [生きるを考える]

 前回の記事にコメントやナイス訪問してくださった皆様ありがとうございます。何人かの方のコメントにもあったことについて今の感想を書きたいと思います。
 自分はかなり心配性で、今社会に起こっていることについて楽天的にもなれないほうなのであまり書きたくないと思うことがあります。しかし、自分の身のまわりの現実としっかり向き合って暮らす以外に生き方はないのだし、その暮らしの中に希望を見出すことが大切だと思っています。稲の旋律の舞台となっている農村は千葉県の光町だろうと思いますが、私が生まれたところも稲作と野菜などを栽培する農村で、先日は今も農業をしている友人と旅行をしていろいろ農業のことも聞きました。帰省したとき、高校があって通った市内はシャッター街になっていてさびしい思いがしました。なぜ地方がこんなに問題を抱えてしまうのかなという疑問はずっと以前からありました。地方が取り残され、寂れ、過疎化して日本が豊かになることはないと思います。クラスの中で高校に進学した人は50数名中10数人、金の卵といわれ、東京に出たり、地方都市で就職した人が3分の1、残り3分の1の人は郷里に残りました。
 先日ガイアの夜明けを見ていて改めて本来農業が持っている可能性、豊かさ、人間らしさ、命の原点のようなものを感じさせられたのですが、農業に携わっている人には実際いろいろの壁があるようです。壁になっているものはいろいろあって複合しているのでしょうが、TPPも心配していました。私にははっきりとしませんが消費者としても勉強したいなと思います。ただ漠然と感じるのは日本全体の大きな仕組み、理想とか理念とか方向性とかから地方や農業漁業、林業、水産業などが抜け落ちる、あるいは軽視され、キチンと位置つけられていないことがあるのではないだろうかということです。
 地方農村は長い間自民党の選挙地盤として補助金政策で輸出工業産業の下支えになってきた歪みがあるように思えます。農林水産業、地方産業を生活の基盤と位置つけて効率第一から、生活中心、人間中心へ見直す時期に来ているのではと思うのですがどうしょう。効率とは金であり経済効率だけでは細るばかり。
 豊かで何にでも挑戦できる時代なのに、どうして生きにくさを感じてしまう若者がいるのか?何人かの人がコメントでそういう疑問を投げかけられました。私もそういう疑問をずっと持ってきました。ただその中で強く感じたことがあります。それは私だけの感想かもしれないのですが、私も答えを持たないし、彼らにどう生きたらいいと答えることができないことです。私も自分の答えを探しています。誰も答えてくれない、もしかしたら大人世代も答えられないところにいるのでしょう。いみじくも河合隼雄さん(惜しくも故人となられている)がおっしゃっていました。待つということがどんなに苦しいことか、経験したものでないとわからないと。心理療法家として一番信頼している一人である河合隼雄さんがそうおっしゃるのですから。生きるって大変なこと、でもだから生きるって素晴らしい事って思います。


追記  前のブログは     http://fusenkazura.blog.so-net.ne.jp/ 1.5×4から
 

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